13. その後の術後検診のことなど

前回のアップから1ヵ月以上経ってしまい久しぶりの投稿です。

ここからリンクしている皆さんのブログは毎日のように拝読させて頂いているが、特にケン三郎先生kuwachannのブログの更新は頻回に行われておられ、私などお恥ずかしい限りだ。

さて、家人の食事状況などは退院後から今までも相変わらず病院の看護士が勧めてくれたレトルト系が多いのだが、もともと細身(健常時44kg)だったせいか体重が32kgまでに減ってしまい、大好きだった車の運転を昨年の秋以降しなくなった。
筋力が落ちていてハンドルやアクセル・ブレーキが思うように動かせなくなったこと以上に、不注意から軽い事故を起こしがちになったからだ。

また、前回書いたように術後補助抗癌剤治療後の発作による緊急入院が昨年6月に1週間あったわけだが、その後愁訴を回避するため近所のクリニックでオプソやボルタレンなどを時々処方してもらう療養生活を送っている。
術後の定期検査だが、昨年9月に順天堂医院で術後6ヵ月検診(レントゲン、肺CT、エコー、採血等)を、また11月に造影剤による胸部CTと内視鏡検査を受けた結果、異常無しとのことであり一安心した。

さらに、先週、術後1年検診(レントゲン、肺CT、エコー、採血、内視鏡)を受け今週末の外来での結果待ちである。

ところで、この数ヶ月病気に関して出てくる彼女の口癖は
「もし再発したらもう手術も入院も何もしたくない、家で死を待ちたい」
である。
思い返せば、昨年1月にがんセンターでサルベージ手術不適応と言われ、余命半年までであとはホスピスへと「死の宣告」を受けた時にともに泣き、諦められずにすがっていった順天堂医院で手術適応となった時も一緒に涙した彼女はその時点では少なくとも死を極度に恐れていたし、生への執着心で一杯だった。
半年かけて行った彼女への様々な治療は、そのことを忘れさせてしまうほどの苦痛を結果として残すものだったのか。
もちろん、ケン三郎先生kuwachannのブログからのコピーを読ませたり、このブログへの皆さんからの心温まるアドバイスを伝えたりしてもいるのだが、あまり興味を持たず私としては情けなくなってくる時すらあるのだ。

ところがである。
まだ、何も治療していないのに彼女と同じようなことを言う方がいたのだ。

実は、先月、このブログにコメントを非公開で寄せてきた方がいてその内容に私は衝撃的な思いを覚えたのだった。
非公開のコメントなので詳細は述べられないが、概ね以下の内容であった。

この方は私と同じ年の女性で最近食道癌を告知されいろいろ調べた結果、ケモラジ治療を選択されるそうである。
ただ、文面から察するには癌を治そうという意欲があまり感じられないのである。
これまで、好き放題に仕事、遊び、お酒、タバコなどさんざんやってこられて、
一昨年、癌とは異なる大病を乗り越えて今回の癌告知で思うのは
「自分は、もう寿命なのだと思う」
「癌は、克服しなくてはいけないものですか?闘わなくてはいけないものですか?」
とのこと。

そして、周囲の方々から言われる「頑張れ」の言葉には
「申し訳ないが、痛みや苦しい思いをしてまで頑張りたくない。もう精一杯生きてきたので残された時間を穏やかに、何とも闘わず、生きたいと思ってはいけませんか?」
とあった。


「?」があったので、躊躇しながらもこの時は同じ年の人間としてまた患者の家族の立場から参考までにということで、私なりに真面目にご返事させて頂いたのだが、実際、私と同年でこれほどまで割り切った人生観、死生観を持っている人に私は巡り会ったことがなかった。
たまに、有名人などで「癌と闘わない」生き方を選択する人がいることをマスコミで知ることもあるが、「充実した人生」だったからと言って無治療を本当に選択できるのだろうか。

私の家人の場合は単純に長生きしたいから全力で癌と闘ってきたはずで先ほど書いたネガティブな最近の口癖に対しては、
私は
「ハイハイ、でもその場合(再発・転移)は痛くも苦しくも無い治療を考えてあるからね」と答えるようにしている。

何としても、週末の結果をクリアせねば。

-次回に続く-

注:このブログで述べられる筆者の意見や提案は、あくまで私たちが患者として体験してきた事やネットや書籍で知り得た事をもとにしているに過ぎないものであることをお断りしておきます。

コメント

  1. ケン三郎 より:

    SECRET: 1
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    頑張れば治る見込みがあるのにその治療を選択されない
    患者さんは確かにいて、最後には食道と気管が交通して
    食事したらむせて肺炎になるといっても聞かずに
    コーヒーを飲み、タバコもすい、やりたい放題でなくなって
    最後はこんな目にあったのはお前らのせいだと暴言をはいて
    亡くなりました。いい患者さんばかりではないのがこの
    世の実情です。
    奥さんの無事を祈っております。非公開で願います。

  2. kuwachann より:

    SECRET: 1
    PASS: 74be16979710d4c4e7c6647856088456
    今週末の結果がいいことを心からお祈りいたしております。
    私のブログを読まれると、積極的に治療を受けてやろう的人間に思われるかと思うのですが、実は奥様の気持も非公開でコメントを寄せた方の気持も良く分ります。化学治療は本当につらいもので、1度受けたものは、2度と受けたくないものです。「本人を殺さない程度に毒を盛るもの」ですから。単に姑息治療で、治療後のQOLが悪くのだとしたら私も、すごく考えてしまうと思うのです。
    リンクされているTroic of Cancerの三浦さんが「ひとさまの闘病記(16)」で書かれているように、患者自身にとっては(特に鬱っぽくなり体力がない時は)果敢に頑張っている患者の闘病記を聞かされても「だから、ナンなの?」という気持になってしまうと思うのです。私も鬱っぽくなっていた時にランス・アームストロングの闘病記を読み、なんとなく腹立たしくなったことを覚えています。
    私自身ブログをつけていますが、私の日記を読んで腹立たしい思いの患者さんも多いのではないかと思うことがよくあります。
    癌と向かい合ってどんな態度を取るかは、人によって様々だと思うのです。私のように開示して、自分を客観視し、人とコミュニケーションをとることで元気をもらう人、黙って1人っきりになることで心のバランスをとる人。。。患者さんはそれぞれの生き様があると感じています。無量寿(以下の抜粋の中にある言葉です)はどんな選択の中にもあるような気がします。
    私の心の転機は日記の8/16/06だったと思います。
    (以下抜粋)
    中学校1年生の夏休みに交通事故に遭った。夕方薄暗くなってからのお使いの帰りで、旧谷山電停の前の交差点(ローカルで済みません)で信号が青に変わった瞬間に走り出た。ところが黄色信号ぎりぎりで走り込んで来た車にぶつかり、11メートル飛ばされた。目撃者の話によると、ぶつかった瞬間私は身体をボールのように丸めたのだそうだ。そのせいか、大腿部の打撲と顔や肩のかすり傷だけで助かった。
    米国だったら翌日退院ぐらいの傷だったのだが、日本の病院の常で3週間入院した。病院食をバクパク食べて、ごろごろ寝る。それまではガリガリに痩せてごぼうのような足をしていたのに、ふっくらとなって退院した。夏の終わりに、お気に入りのクリーム色のショートパンツが入らなくなってショックだったのを覚えている。
    入院中の一番の思い出は泊まり込みで来てくれた母のことである。ある夜、彼女は私と同じベッドに横になって「隅田川」や「荒城の月」を私と合唱した。私が低音部を母は高音部を唄った。いつまでも少女のようなところのあった母の「いかにも母らしい」思い出である。
    「母だった」という過去形を使ったけれど、母はまだ存命している。3年前ぐらいから軽度のアルツハイマーにかかり、会話がとんちんかんなものになった。
    3、4年前のお正月の頃だったかと思う。何となく母の様子が変だということで、親戚が批判を始めた。「もっと積極的に行動をしないから惚けてくるんだ。運動を全然しないでしょう。私はこうしてる。僕はこうしてる。だから大丈夫なんだ」等々。私に「親を叱咤激励しなさい」のような手紙をくれた親戚もいた。皆親切で言うのかもしれないけれど、批判は父にまでおよび非常に醜いものになった。酒の席での無礼講が赦される日本の文化が嫌になる瞬間である。
    そんな親戚一同に私は手紙を書いた。「人間は様々な病気にかかります。癌にかかる人もいるでしょう。糖尿にかかる人も。また心臓発作を起こす人もいます。母の症状は抗しようのない病気なのです。一番辛いのは母自身かもしれません。分って下さい」と。以来少なくとも私の前で両親を批判をする親戚はいなくなった。
    その手紙を書いた時、「年老いて病気になるのなら、他人にも分りやすい癌のような病気になった方がいいな」と思った。そして以来、自分もアルツハイマーになるかもしれないという不安がつきまとっている。
    癌にかかったというニュースを聞いた時に『怒り』ではなく『そうか、私にはこの形で来たのか』と静かに感じたのは上のような背景がある。そして今回の癌の治療中も『もし癌が治っても、最終的にアルツハイマーにかかるんなら、生きてる価値があるのだろうか』という、どす黒いネガティブな猜疑が心の底に潜んでいた。
    交通事故に遭った時の母との交流を思い出しながら、このネガティブな気持に思いが移った。そして、このまま開腹の大手術に臨んだらヤバイと思った。
    さて、ここ、2、3日、Rachel Remenの著書『My Grandfather’s blessing』を読んでいて、今朝読み終わった。その最後の章に次のような話がある。
    旧約聖書の中の「脱エジプト記」(Exodus)はとても有名な話である。エジプトで奴隷になっていたユダヤ人をモーゼが率いてサイナイの砂漠に導びき解放した。(日本ではチャールストン・ヘストンの映画「10戒」と言った方が通りがいいかもしれない。)ユダヤ人は今でも毎年『セーダ』という特別な晩餐の催しをしてこの歴史を祝う。
    さて、その話の中で、ユダヤ人たちはこれまでの奴隷生活からの解放が約束されているのに解放リーダーのモーゼに抵抗した。なぜだろう?
    ユダヤ教の司教だったRachelのお祖父さんは7歳の孫にこう説明する。
    「彼らは苦しみ方のプロだったのさ。これまで長い間奴隷をやってきて慣れてたんだ。でも自由になる方法は知らなかったんだよ。」
    そして、大人になったRachelはこう思う。
    「私達は自分の心の内部の奴隷制に捕らわれている。私たちは欲望や無知のせいで、自分には価値がないと思い込んだり自信を欠如したりしている。自分は犠牲者なんだとか、しかじかの権利があるんだとかいう概念の奴隷になっている。脱エジプト記は変化に対する恐怖の話だ。自分を解放して未知のものに対応することと、卑小で実は自分を傷つけるような場所や行動に居心地がいいからとしがみつくことについての話だ」
    お祖父さんはRachelにこう言ったそうだ。
    「奴隷か自由かの選択ではないんだよ。私たちは常に奴隷か未知かの選択をしなければならない」
    何かがストンと墜ちた。
    私は今まで自分の価値を「結構理解力があって、適切な判断ができる」ところに置いていたように思う(家族の者や周りの人は「え、うっそ~~。全然理解力ないじゃん」というかもしれないけれど、自分ではそう思っていた。)皆にもそう思ってもらいたかったから、一生懸命努力もしてきた。だから「もしかしたらアルツハイマーに罹るかもしれない、惚けてしまうかもしれない」未来は怖いものだった。
    去年の秋のカンフェレンスで、通訳の1人が同僚の通訳の話をした。「若くて能力のあるままでいたいから、私は60歳になったら自殺する」と言っているのだそうだ。私はその有能で有名な通訳のような能力は全くないけれど、50歩100歩で似たような考え方をしていたのかもしれないし、そういう文化の中に棲んでいた。
    でもそれは私にとって単に住み慣れた高慢な概念なのだ。人間の命の尊厳なんてそれよりずっと深く不思議に満ちたものであるに違いない。これから先何があるかなんて全く未知だ。
    手術に向かって思いっきり前向きに恢復しよう。そして命が繰り広げてくれる様々な不可思議を楽しもうと思った。
    今年の正月に梵語では人生のことを「無量寿」というのだと、父が教えてくれた。変化や老いや既成の概念を恐れず、素直に命に向かえば、人の生涯は無限の寿、喜びに満ちているという意味だと思う。
    これからは手術に備えて一生懸命歩いて心臓を鍛え直さなければなりません。

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